青空文庫に対して URL の変更を申し入れ。同時に typo などを修正しました。差分。
2012/07/28
2012/07/27
Re: コメントにならないコメント-11
http://d.hatena.ne.jp/DrMarks/20080626/1214458583
コメントにならないコメント-11 (小説が売れるのに法則などないーフィッツジェラルドのThe Great Gatsbyの場合)1 - Comments by Dr Marks
最後のコメントできびしいご指摘。
hardware 屋さんを「重機」なんてとんでもない訳語もありましたね。普通の金物雑貨屋さんのことですよ。ブルドーザーを商っているわけじゃない。
はい、です。でもちょっと言い訳タイムをいただこうかな。
まあオレの知識不足たるところなのですが、これが「雑貨」を意味するのか、「中間材料」を意味するのかわからんのですね、今なお。地金・板金類を扱ってるんじゃないかなあ、という気がしたりもするんですが、そこで「金物」というとちょっと意味合いが変わってくるか?と迷いつつも、そもそも「重機」にした最終的な動機が「よくわからないので、野崎訳とあえてちがう単語を選択してみる」というコピーライトトラップ回避主眼の卑しいしろものだったりもするので、こうして公にダメ出してもらったのはかえってありがたかった感はある。
まあ、「中間材料」としても、「重機」は変だよね~。この件は、以前から気にはなっていたので、先だっての修正時に「金物」に変更しましたが、そこでこの記事に気づいたのでご紹介しておきます、ということで。
んで、もうひとつ。
英語で brother とか sister だと日本語に訳しにくいのです。前後関係から「兄」と想像できることもあります。例えば「祖父の兄」と言っても妥当なことがある。しかし、この訳者は、そうしておきながら「大叔父」と great-uncle を訳してしまっている。それとも、今頃の日本語では「大伯父」と「大叔父」の区別はつけないのでしょうか。
へえええ~。なんて言ってしまうのがまたなお不勉強ではありますが……。そっか、たしかに「伯」は長兄を意味するんでしたっけ。いや、まったくその辺りの意識がなく、ご指摘のとおりオレの中では区別がついてません。なるほどねえ……。
次回の修正時に変更するようにしようかな。
2012/07/25
パブー版『グレイト・ギャツビー』公開をめぐる想いのはしきれ。
電子書籍の作成・販売ができるサービス「パブー」にて、『グレイト・ギャツビー』を公開しました。あえて有料 (3,000円!) です。
なにがやりたいかというと……本質的にはまあ、売名行為ですね。はい。
青空文庫のおかげでネット上にオープンな古典文献を蓄積するという活動があることはそれなりに知られているとは思うのですけど、プロジェクト杉田玄白をふくめ、そこに翻訳によってかかわるというあり方は、まるで盛り上がらなかったみたいだなあというのが、アクティブでなくなってから10年たった私が、2012年に自分のサイトの移転をしながら感じた印象でして。
需要があまり高くないのは仕方がないとしても、認知度そのものが低いと思うのですね。
そこで、『ギャツビー』を使ってこういう活動があるということを違うプラットフォームに広げてみることにしました。青空文庫で『ホームズ』シリーズや『あのときの王子くん』の翻訳をはじめに精力的に翻訳活動をなさっている大久保ゆうさんもパブーで活動なさっているので、まあ重複はするんですが、『ギャツビー』は今年末に映画化される関係で注目を集めやすいと踏みました。しかも3000円ですよ。あほかコイツと思って1ページめくらいは見てもらえるんじゃないかと。
とりあえずそういう情宣ができればまず目標は達成できるわけですが、そんでもしお金を出してもいいよって人が万が一でてきたとしたら、それはそれでオレとしてはとても嬉しいしありがたい。そして、「こういう展開もありかもよ」っていう、オープンな翻訳活動のまた違うモデルの参考例にできるんじゃないかと。
正直、お金を絡めた話に持っていくのはやっぱり抵抗はあります。でもクリス・アンダーソンの『フリー』を読んでいて思ったんですが、「読者にお金を配るというやりかたは成立しない」んですよね。どこかである程度のなにかを回収しないと破綻してもしかたがない、ということになってしまう。例として適切かどうかわかりませんが、Katokt さんの翻訳にせよ、Osawa さんの『物語倶楽部』にせよ、主体者がリソースをさかなくなれば、そこでおしまいです。
本質的にオレの活動は無償奉仕であって成果物が無償で提供されていることに意味がある。そう、客観的に言えばそのとおりなんだけど、なんというかな、あんまり無償で!とか無料で!とかいうヒステリックな物言いは好きじゃないのですね。無料と聞くと「なんかうさんくさいな」と一瞬身構えてしまったりとか。
そこにエリック・レイモンドたちが言うような「評判モデル」が機能してくれればいいんですが、オレみたいな一般人には、評判と言ってもあんまり意味がないんじゃないか。そうすると、とりあえずはお金に行きついてしまうのかなあ、と、内心ひるみながらも、そう思うわけです。……まあ、パブー版の1ページめにちゃんともっと書いてありますので、そちらも参考にしていただくとして。
とにもかくにも、どんと3000円を積んでくださる方がでてくるのか。あるいは、全然話題にもならずに消失してしまう試みか。さあ、どうなることでしょう。
おまけ。表紙は適当に作ったんだけど、なんかちょっといい感じのように思えてきた。手作り感と適当感のほどよいミックス。
2012/07/24
[翻訳] 『グレイト・ギャツビー』修正
2012/07/17
Re: 言葉を紡ぎだすのが作家の喜び
というエントリーを見つける。
主題は『グレイト・ギャツビー』の第5章、ギャツビーがシャツを投げまくる場面の翻訳についてのコメントなのだけど、正直、これは参った。野崎孝訳、村上春樹訳と比較されるのは、まあ仕方ないとしても、その上でわりと好意的なコメントがつくのはどうしたものだろう。
オレとしてはこの部分の翻訳は全然駄目だと当時から思ってたので、よりによってここを取り上げなくても、という思いは、ある。問題の原文は、こうだ。
He took out a pile of shirts and began throwing them, one by one before us, shirts of sheer linen and thick silk and fine flannel which lost their folds as they fell and covered the table in many colored disarray. While we admired he brought more and the soft rich heap mounted higher - shirts with stripes and scrolls and plaids in coral and apple-green and lavender and faint orange with monograms of Indian blue. Suddenly, with a strained sound, Daisy bent her head into the shirts and began to cry stormily.
"They're such beautiful shirts," she sobbed, her voice muffled in the thick folds. "It makes me sad because I've never seen such - such beautiful shirts before."
で、オレはこう訳している。
ギャツビーはワイシャツの山を取りだし、1枚1枚、ぼくらの目の前に投げ出しはじめた。地味な麻のシャツ、厚いシルクのシャツ、見事なフランネルのシャツが、宙を泳ぎながらその折り目を開き、彩り豊かにテーブルの表面を飾っていく。感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投げ、柔らかで贅沢な山はさらに高く伸びる――縞模様や渦巻き模様や格子模様が珊瑚色やら青林檎色やら薄紫色やら淡橙色やらで入り、インディアン・ブルーの糸でイニシャルが刺繍してある。とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。
「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗なワイシャツ、見たことないんだもの」
野崎訳、村上訳がそれぞれどうなっているかはリンク先でとくとごらんいただくとして。
まず何が駄目かって、「縞模様や渦巻き模様や格子模様が珊瑚色やら青林檎色やら薄紫色やら淡橙色やらで入り、インディアン・ブルーの糸でイニシャルが刺繍してある。」という文章は最悪だ。暴れ馬にふりおとされないようにと無様にしがみついているにすぎない訳し方。「地味な麻のシャツ、厚いシルクのシャツ、見事なフランネルのシャツが、」というのも、ちょっと原文とずれる上にイメージが鮮明でない。
第2段落の訳は、そう悪くないと思うので(というか、そう外しようがないというか)そのまま。ということで、これでどうだろう。
ギャツビーはワイシャツの束を取りだし、1枚1枚、ぼくらの目の前に放り投げはじめた。薄手のリネンのシャツ、厚手のシルクのシャツ、洒落たフランネルのシャツが、宙を泳ぎながらその折り目を開き、テーブルの上に彩り豊かに散り積もっていく。感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投げ、柔らかで贅沢な山はさらに高く伸びる――横縞・縦縞・格子の模様、珊瑚色・青林檎色・藤色・薄橙色の布地、インディアン・ブルーの飾文字。とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。
「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗なワイシャツ、見たことないんだもの」
すこしリズム感はよくなったと思いたいけれど、中黒を使うのも、あんまりよろしくはないかもなあ。「藤色」は野崎訳パクリで。ここはたしかに自然物の名前を冠した色でなきゃいけないけど、「ラベンダー色」とすると浮きすぎる。
あとは「柔らかで贅沢な山」もなんとかしたいとは思うんだけど、表現力不足。
追記: いろいろ考えて「ふかふかの」でシンプルにいけそうな気がする。
2012/07/13
[翻訳] ギャツビーに関するリアクションをもうひとつ。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/4383/1088779869/63
よくわからないけど、名高い2チャンネルではなさそうな、どこかの掲示板。
He did not know that it was already behind him, somewhere back in that vast obscurity beyond the city, where the dark fields of the republic rolled on under the night.
http://www005.upp.so-net.ne.jp/kareha/trans/gatsby.htm あの街の向こう、あの広大で曖昧とした世界、共和主義の原野が夜にまかせて押し寄せようとしていたところにぼくらが置いてきた夢。
ぼくらが置いてきた夢。is not correct. Gatsby's dream was already behind him.
Here "the republic" just means "this nation" (the USA).
そのとおり、としか言いようがない。ゴメンナサイ。
一応その狙ったところを記録に残しておくと、the republic を「国」よりも「思想」として読みたかったんだ。「みんなで幸せになりましょうね」的な共和主義思想と読めば、「じゃあどうしてそもそもの起こりが共和主義であるはずの国でギャツビーは幸せになれないわけよ?」というニック=フィッツジェラルドの怒りみたいなものが、この文章から感じられないだろうか。
そこで「共和主義」としたわけだけど、こうするとこの the republic がアメリカであることは確実に伝わらなくなってしまう。そこで、最初の文章を作り変えて「ぼくらが……」という形に。「ぼく」はニックなので、「ぼくが置いてきた」場所はアメリカになるはずだ。
まあ、翻訳としては邪道のきわみである。
そして、つまり、オレはこのシーンを「共和国」が「夜」=「夜明け前」にあったころの歴史の話をしていると思っているのだけど、でも一般に手に入る訳書を見る限り、こんな解釈をする人はいないみたいだね……。
なんにせよ、夢がビハインドにあるのは、ギャツビーが主体的にそうしたからではないので、動作を伴う動詞を入れるのはまずそうだ。vast obscurity に「茫漠たる」を使うのは野崎孝訳に遠慮して避けていたのだけど、どうやら村上春樹訳もそうしているらしいので、もう遠慮することはなかろう。
かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市のかなたの茫漠たる世界のどこか後方、この共和国の、夜の帳の下にうねり広がる、闇深き原野だったのだ。
……ピンボケぎみだろうか。「この共和国の、」で一回切れるのも係りがわかりづらい。「共和国」を主格にしてみる?
かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市のかなたの茫漠たる世界のどこか後方、この共和国が、夜の帳の下にうねり広がっていた、闇深き原野だったのだ。
直前のエントリーで「読み手としての解釈を翻訳に載せるのはいかが」みたいなことを書いておいてあれだけど、ここについてはもういいやという気がしてきた。もっと大胆に過去の話にしてやれ。
かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市が茫漠として形もなかったいつかのどこか、この共和国がいまだ夜の帳の下にうねり広がっていたころの闇深き原野だったのだ。
誤訳……というか、誤読という汚名はあえて甘受することにしよう。
でも、歴史レベルの過去のことを語って(ニューヨークの最初の植民者はオランダ人だ)、直近のギャツビーにことを考えて、歴史と直近の出来事を絡め合わせるという思考の流れには、無理がないと思うんだ。
[翻訳] Re: 無料で読める『グレイト・ギャツビー』(青空文庫)
というエントリーを見つけたので、ちょっと内容を検討してみたい。
直訳体なので、もっと日本語を磨いたほうが伝わりやすいのにと思える箇所もある。たとえば、「異常なほど意思を伝えあう」とか「資質が平凡」とかは改善が必要だろう。しかし逆にみれば、凝った言い回しを使っていないので読みやすい。野崎訳はもちろん、それを批判している村上訳も案外古い表現が多い。
なるほど。直訳体については、そうでしょうね。オレは翻訳の際に文章の流れや長さが極端に変わるのをいやがるたちなので、どうしてもそうなってしまいがちではある。そこにあるぎざぎざ感をいかに丸くこぼしていくか。つまり、お褒めの言葉を(ちょっとずるい形で)借用すれば、「直訳体なのに読みやすい」という形こそが個人的な理想なわけだけど、なかなかそううまくはいかないんだよねえ……。
1. 「異常なほど意思を伝えあう」
原文は "unusually communicative" 。そしてじつはこの部分、他の方からも表現が変と言われたことがある。う~ん、でもこの部分は、すごく表現しづらい。"always been unusually communicative" と、「常に~普通じゃない」という表現は一瞬ひっかかるものを感じるし、そもそも「普通にコミュニケイティブ」というのは、いったいどんな状態を指すんだろう?
そんなわけで、ここの部分はオレの読者としてのとまどいがそのまま打ち出してあるわけだけど、そんな中でちゃんと伝えるべきと考えた要素は、「行き交う情報量が普通じゃない」ということだった。少々いびつな表現になってはいるものの、きっと誤りなく読み取ってもらえると思いたい。
で、この部分、もうちょっとつっこんで考えてみたい。問題は、どう普通じゃないのかということ。それはたぶん、「一を聞いて十を知る」的な、増加直線的なものではないように感じる。もっとこう、「一を聞いて一じゃない可能性を知る」みたいな、ひどくまわりくどいコミュニケーションのあり方じゃなかろうかと思う。
たとえば、冒頭の「他人のことをとやかく言いたくなったときはいつでもね、この世の誰もがおまえほどに恵まれた生き方をしてるわけじゃないと思い出すことだ」という父のことばは、普通じゃない (unusual) 解釈をすれば、「自分より恵まれている相手をとやかく言うはよし」ということなわけで、結局、ニックはそれにしたがってか、ギャツビーを「軽蔑するものすべてを一心に体現する男」と言い切ってしまうし、終盤ではトムとデイジーを終盤で断罪するいきおいを示す。そして、ウィルソンに対しては基本的に同情的である。
と、オレは読んでいるのだけど、でも、これは非常に個人的な、そしてたぶん異端的な読み方であって、しかもオレ自身絶対的に正しいとは思っていないくらいなので、翻訳上に示すのはいかがなものか。というわけで、具体的なところは読み手の想像にまかせるとして、「標準以上の」とも「標準以下の」とも解することのできない言葉を選択して、こうなりました。
さて、もし修正するとしたら、どうするだろうなあ。たしか、初稿の初稿では「並大抵でないコミュニケーションのとりかた」だったような記憶があるが、それと比べたら今の方がマシだ。
2. 「資質が平凡な」
う~ん、そうくるのか……。前後を補うと、こうだ。
風変わりな精神の持ち主は、ぼくのような資質が平凡なひとたちの中に現れると、それを目ざとく見出し、すりよってくるものなのだ。
The abnormal mind is quick to detect and attach itself to this quality when it appears in a normal person,
……なるほどと思う。オレの想定では「ぼくのような資質が/平凡なひとたちの中に/現れると」なんだが、たしかにそう読ませるのは無理がある。
"abnormal spirit" v. "normal person" を活かしつつ、これならどうだろう:
並外れた精神は、並みの人物がこの特質をあらわにすると、たちまちそれを察知し、くっつこうとする。
やはり、精神の「持ち主」は補ってやる必要があるか?
並外れた精神の持ち主は、並みの人物がこの特質をあらわにすると、たちまちそれを察知し、くっつこうとする。
……なんだか、ちょっと違うんだよなあ……。持ち主をやめて、特質→心がけなら?
並外れた精神は、並みの人物がこの心がけをあらわにすると、たちまちそれを察知し、くっつこうとする。
appear を少し弱く、attach を少し作った感じで。。。
並外れた精神は、並みの人物がこの心がけを見せると、たちまちそれを察知し、そこにぶらさがろうとする。
……こんな感じでまあ遠からずだろう。理想を言えば語順をそのまま使いたいが、「察知」を前に出すのはかなり無理がありそうだ。
2012/07/06
『クリスマスキャロル』(Katokt訳)公開
- チャールズ・ディケンズ『クリスマスキャロル』(Katokt訳)を公開しました。
まず、本文から除去してしまった Katokt さんによるあとがきを引用:
後書き
まずは訳の感謝から、クリスマスに感謝を。クリスマスがなきゃ夏の暑いさかりにかけてすっかり中断していた翻訳は永久に完成しなかったことでしょう。またいつもながらプロジェクト杉田玄白の主催者でもある山形浩生さんにも感謝を。
ディケンズの生涯なんかは、サマセットモームの世界の十大小説にで詳しいので、そちらをどうぞ。
あいかわらず翻訳にはまちがい、勘違い、ケアレスミスとありとあらゆる災難(もちろん人災ですが)がつきものなので、訳者(katoukui@yahoo.co.jp)まで教えていただければ幸い。
まあ、たまにはこういう話をじっくりよんでみるクリスマスもなかなか悪くないんじゃないかと、物語が書かれてから150回以上たった今年のクリスマスにふと思ったりもするわけで、ではみなさん楽しんでください。
引き続き、katokt さんが2003年に翻訳したもの。2009年頃に Not Found になってしまったようですが、せっかくなので、Wayback Machine を使って 2008年10月15日のアーカイブを元に回復しました。再利用の許諾条件は満たすと思うので、問題はないと思ってます(Katokt さんと連絡が取れれば話が早いのでしょうけれど)。
ついでなので、マークアップを整理したり、青空文庫形式のテキストファイルを準備させていただきました。「だ・である」と「です・ます」が混在した状態で、かなり校正を入れる必要がありそうなので、文章自体にはほぼ手直しなしでいったん公開します。挿絵は申し訳ないのだけど抜きました。
『アレキサンダー・エイブラハム家での隔離』(Katokt訳)公開
- ルーシー・モード・モンゴメリ『アレキサンダー・エイブラハム家での隔離』(Katokt訳)を公開しました。
まず、本文から除去してしまった Katokt さんによるあとがきを引用:
あとがき
この短編を訳してみれば? とアドバイスをくれたよしみねさん、どうもありがとう。女性が主人公の短編を訳すのは難しいっす。なんか最後まで感じがつかめてません。これをベースにした改訳なんて望ましいですね。そろそろ赤毛のアンなんかもパブリックドメイン入りですか。
これもまたオレの翻訳ではなくて、katokt さんが2003年に翻訳したもの。2009年頃に Not Found になってしまったようですが、せっかくなので、Wayback Machine を使って 2008年10月15日のアーカイブを元に回復しました。再利用の許諾条件は満たすと思うので、問題はないと思ってます(Katokt さんと連絡が取れれば話が早いのでしょうけれど)。
ついでなので、マークアップを整理したり、青空文庫形式のテキストファイルを準備させていただきました。また、「アブラハム」を「エイブラハム」に、「アドルフ」を「アドルファス」に変更しました。他にもちょっと手直しが望まれそうな部分がいくつかありますが、とりあえずそのままにしています。
この話は主人公とエイブラハムの会話に妙味があるので、どうせ手を入れるなら大胆に、と思うと、小さな手入れをするのがどうにも億劫に。
『ケンジントン公園のピーターパン』(Katokt訳)公開
- ジェイムス・マシュー・バリ『ケンジントン公園のピーターパン』(Katokt訳)を公開しました。
まず、本文から除去してしまった Katokt さんによるあとがきを引用:
あとがき
この作品の翻訳は、まさにインターネットにピーターパンの翻訳を公開したあともらった一通のメールからはじまったのである。ピーターパンを訳しているときに、こういう作品もあるんですよというメールをFさん(本当に感謝)からいただいて、ピーターパンの翻訳と同時並行的に、協力して少しずつ訳しはじめたのがその始まり。しばらくしてお約束のように連絡が途絶えてしまったので、katoktが協力した分も含めて全て訳しなおしています。(よって本翻訳におけるすべての誤りに対し、全ての責任を負っているのはkatokt。指摘などがあればkatoukui@yahoo.co.jpへ)
作者、作品については、ピーターパンの後書きから再掲すると、ピーターパンに直接かかわるJ.M・バリ の作品は以下の3つで、本作品は最後に発表された作品となる。
1902 小さな白い鳥:バリ自身を思わせる中年の独身男を語り手とする私小説
1904 ピーターパン(戯曲、1912には小説化):ご存知の演劇、チャップリンの出演やティンカーベルの演出などいろいろなエピソードにも事欠かない
1906 ケンジントン公園のピーターパン:小さな白い鳥からピーターに関連する6つの章を抜粋
作品についてもっと詳しく知りたい方は「ピーターパン写真集」鈴木重敏、新書館なんかが、ピーターパンの演劇のエピソードもいろいろ盛り込まれていて面白いと思う。ただ、この本の説明では、ケンジントン公園のピーターパンは6つの章となっているが、実際に今回の翻訳は4章分。いったい残り2章はどこにいっちゃったんでしょう? まあ原文が手に入ったら追加することとします。
訳していてもピーターパンとのいろいろな共通点、変更点が読み取れておもしろい。興味深い変更点としては、ピーターパンが飛ぶときに本作品では強く信じれば飛べることになっているけど、ピーターパンの方では妖精の粉が必要ということになっている点などがあげられるだろうか。これは当時あまりに多くの子供が強く信じるだけで飛ぼうとして怪我をしたので、そう書き改められたということである。大変ほほえましいエピソード。
もうひとつ翻訳の強力な後押しをしてくれたものとして、Arthur Rackham の挿絵も欠かすことはできない。かなりファイルサイズも大きくはなるが、ぜひ挿絵入りバージョンで読んで欲しい。
今回は感謝を最後にもってきて、結城さん(http://www.hyuki.com/)には訳において多大なる指摘をいただきました、また青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)の富田さんも本当にありがとうございます。そしていつもながらに目を離せない山形浩生(http://www.post1.com/home/hiyori13/jindex.html)にも感謝。
これもまたオレの翻訳ではなくて、katokt さんが2000年に翻訳したものです。プロジェクト杉田玄白の正式参加テキストであり、以前は青空文庫にも登録されていたけれど、2009年頃に Not Found になってしまったようで。
せっかくの全訳がこのまま消え去ってしまうのは少々もったいないと思うので、Wayback Machine を使って 2008年10月2日のアーカイブを元に回復しました。再利用の許諾条件は満たすと思うので、問題はないと思ってます(Katokt さんと連絡が取れれば話が早いのでしょうけれど)。
ついでなので、明らかなミスタイプを修正したり、マークアップを整理したり、青空文庫形式のテキストファイルを準備させていただきました。あとまあ、手間を惜しんだ結果挿絵を抜きました。いずれなんとか。
翻訳自体には手をつけていません。Neverpedia のテキストと照らし合わせてみると、1. The Grand Tour of the Gardens と 6. Peter's Goat が欠けているみたい。そして三章と四章は順番が逆。三章の終わりがひどく唐突で、次の章へのつながりにかけると思ったら、そういうことか。
外部リンク
『ピーターパンとウェンディ』(Katokt訳)公開
- ジェイムス・マシュー・バリ『ピーターパンとウェンディ』(Katokt訳)を公開しました。
まず、本文から除去してしまった Katokt さんによるあとがきを引用:
後書き
まずは訳の感謝から、武井さん、結城さん、枯葉さんには訳において多大なる指摘をいただきました。また訳をはじめる動機の部分においてyomoyomoさん、それからプロジェクト杉田玄白の主催者でもある山形浩生さんにも感謝します。また青空文庫の富田さんにもいろいろな指摘やご尽力をいただきました。
作品と作家についても少しだけ。
作家は自分の着想を大事にするもんだねぇ。作者のバリは、ピーターパンに関連する5冊もの本(写真集と戯曲を含む)を書いている。
1901 ブラックレイク島少年漂流記
本文なしの写真だけの本で、バリみずからも「もしこの本を買う人がいれば、多分不平を言うだろう。だが世間には本文などないほうがましな本がいくらもある」だって1902 小さな白い鳥
バリ自身を思わせる中年の独身男を語り手とする私小説1904 ピーターパン(戯曲)
ご存知の演劇、チャップリンの出演やティンカーベルの演出などいろいろなエピソードにも事欠かない(詳しくは参考文献を)1906 ケンジントン公園のピーターパン
小さな白い鳥からピーターに関連する6つの章を抜粋1912 ピーターとウェンディ
この翻訳これらはいずれもケンジントン公園で知り合ったデイヴィス家の5兄弟(3番目の子の名前がピーター)との交流から書かれたもので、バリは生涯彼らと、病気、戦争や事故でその交流は悲劇的な色合いも帯びるが、密接な関わりを持って行くことになる。演劇などの成功で経済的にも文学的にも恵まれてはいたけれど、私生活では結婚はしたものの離婚して、子供もいなかったバリにしてみれば、その交流が心あたたまるものだったことは想像するに難くない。ピーターパンの全ての権利を小児病院に寄付しているし(その契約が有効で、本国のイギリスでは著作権の切れた今でもピーターパンはいわゆるパブリックドメインな文書ではないと思われる)本当に古きよき日のイギリス紳士といった感じである。
まあもっと詳しく知りたい方は「ピーターパン写真集」鈴木重敏、新書館なんかが、ピーターパンの演劇のエピソードもいろいろ盛り込まれていて面白いと思う。
この翻訳も作者にふさわしく、友達の子供の誕生日祝いにしてみました。まあ訳の出来はともかく、魔法のおなべから生まれたピーターパンをどうか愉しんでください。
これもまたオレの翻訳ではなくて、katokt さんが2000年に翻訳し、『ピーターパン』という題で公開したものです。プロジェクト杉田玄白の正式参加テキストであり、以前は青空文庫にも登録されていたけれど、2009年頃に Not Found になってしまったようで。
せっかくの全訳がこのまま消え去ってしまうのは少々もったいないと思うので、Wayback Machine を使って 2008年10月2日のアーカイブを元に回復しました。再利用の許諾条件は満たすと思うので、問題はないと思ってます(Katokt さんと連絡が取れれば話が早いのでしょうけれど)。
ついでなので、明らかなミスタイプを修正したり、マークアップを整理したり、青空文庫形式のテキストファイルを準備させていただきました。あと、ややこしいので題名を『ピーターパンとウェンディ』に変えています。
翻訳自体にはいまのところ手をつけきれていません。「いまのところ」というか、これについては今後語もありません。この話、個人的には苦手なんだ……。
ところで、『ピーターパン』関係は、たしか、本源国イギリスではまだ著作権が有効なので、若干取り扱いに注意が必要です。
『ジキルとハイド』(Katokt訳)公開
- ロバート・ルイス・スティーブンソン『ジキルとハイド』(Katokt訳)を公開しました。
まず、本文から除去してしまった Katokt さんによるあとがきを引用:
あとがき
宝島にひきつづいてのスティーブンソンの代表作、ジキルとハイド。最近はジーキルなんて表記もよく見かけるけど、僕の頭の中ではすっかりジキルなわけで、こう訳しておきました。訳者の特権かな。まぁ、でも気になる方は一括置換して読んでください、なんならそれで公開してもらっても結構(版権表示とどこを変えたかを明記してくれればね)。で、こういうのがプロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)の自由な文書の特権とかって思うんだけど、いまいち活用されていない気もするなぁ。
それにしてもジキルが善で、ハイドが悪なんて思い込んでいる人のなんて多いこと! そんなに単純に割り切れるだけの話ではないんだなぁ、これが。まあ、じっくり読んでみてください。
それにしてもハイドの犯す「悪」が今となっちゃあ、ただひたすら単純で微笑ましくさえ思えるのは、これこそ昨今の凶悪な事件や俗悪? な本の悪影響なんだろうな、たぶん。
あとはこういう変身のカテゴリーでお奨めなのは、中島敦「山月記」(http://www.aozora.gr.jp/cards/nakajima/sangetsuki2.html)、カフカ「変身」( http://mentai.2ch.net/book/kako/963/963421916.html 文体模写のスレッド)あたりでしょうか? そして枯葉さん( http://www01.u-page.so-net.ne.jp/db3/domasa/ )、青空文庫の富田さん( http://aozora.gr.jp/ )、いろいろなご指摘をありがとうございます。またネット上でいつでもどこでも見かける山形浩生とそのプロジェクト杉田玄白( http://www.genpaku.org/ )にもいつもながらにTNX!
というわけで、『宝島』に引き続き、これもまたオレの翻訳ではなくて、katokt さんが2001年に翻訳したものです。プロジェクト杉田玄白の正式参加テキストであり、以前は青空文庫にも登録されていたけれど、2009年頃に Not Found になってしまったようで。
せっかくの全訳がこのまま消え去ってしまうのは少々もったいないと思うので、Wayback Machine を使って 2009年4月6日のアーカイブを元に回復しました。再利用の許諾条件は満たすと思うので、問題はないと思ってます(Katokt さんと連絡が取れれば話が早いのでしょうけれど)。
ついでなので、明らかなミスタイプを修正したり、マークアップを整理したり、青空文庫形式のテキストファイルを準備させていただきました。
翻訳自体にはいまのところ手をつけきれていません。「いまのところ」といっても今後どうか……まあ、優先順位はやっぱりかなり低い感じ。
2012/07/05
『宝島』(Katokt訳)公開
- ロバート・ルイス・スティーブンソン『宝島』(Katokt訳)を公開しました。
まず、本文から除去してしまった Katokt さんによるあとがきを引用:
あとがき(2001年6月13日)
記憶にのこる読み物って確かにあって、宝島は間違いなくその一つ。どこが記憶に残るかは人それぞれで、シルバーのやりたい放題ぶりだったり、鸚鵡のフリント船長の「八分銀貨」の鳴き声だったりするかもしれないが、なんといっても一部でのジム少年の冒険ほど、読む者を有無もいわせず引き込むストーリー展開は、なかなか他では味わえないと思う。そこを過ぎると意外と作者も力がぬけて、いろいろ構成をかえたり語り手を変えたり、再びとばかりにジム少年を冒険させたりするんだけど、最初の興奮は残念ながらなかなか越えないわけだ。それでも最後まで一気に読ませる読み物であるとこは、さすがだけど。
まぁ訳す側としては、いくつか海・船用語、海賊用語でちょっと頭をひねってるくらいで量をこなした以外はあんまり苦労らしい苦労はなし。誤字脱字、誤訳の指摘は大歓迎なので、訳者までよろしく
それから感謝を、Sogoさん(http://etext.3nopage.com/)全般にいろいろなご指摘をありがとうございます。枯葉さん(http://www005.upp.so-net.ne.jp/kareha/)には序文とその他の指摘をいただきました。また青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)富田倫生さんからも数多くの指摘をいただきました。それでなんといっても、いつもながらに山形浩生(http://www.post1.com/home/hiyori13/jindex.html)にも感謝、というか宝島は、彼の主催するプロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)の趣意書のリクエストだったわけだ。
ということで次は何を訳しましょう、Boss? なんてね(笑)
というわけで、これはオレの翻訳ではなくて、katokt さんが2001年に翻訳したものです。プロジェクト杉田玄白の正式参加テキストであり、以前は青空文庫にも登録されていたけれど、2009年頃に Not Found になってしまったようで。
せっかくの全訳がこのまま消え去ってしまうのは少々もったいないと思うので、Wayback Machine を使って 2009年4月1日のアーカイブを元に回復しました。再利用の許諾条件は満たすと思うので、問題はないと思ってます(Katokt さんと連絡が取れれば話が早いのでしょうけれど)。
ついでなので、明らかなミスタイプを修正したり(まだありそうな感じではありますが)、マークアップを整理したり、青空文庫形式のテキストファイルを準備させていただきました。あと、Hawkins がホーキンスだったりホーキンズだったりしたので、ホーキンズに統一しています。
翻訳自体にはいまのところ手をつけきれていません。「いまのところ」といっても今後どうか……まあ、優先順位はかなり低い感じ。