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2013/07/07

映画『華麗なるギャツビー』拝見の記。あるいはぼくがえらそうに繰り返す答え合わせめいたなにか。

映画は苦手であんまり見に行かない。上映の間じっとしていないといけないというのがどうもダメらしい。なので今まで映画館で見た映画は20本もいかないんじゃないかと思うのだけど、そんなオレでもやっぱり『華麗なるギャツビー』はスルーすることができませんで、奥方様とデートがてら見に行ってまいりました。

3Dもあったけれど、相方が3D酔いするたちだし、オレもこだわりがないので2D。2Dを選んだら字幕しかなかったので否応なく字幕。まあ、オレとしては字幕のほうが好きなので願ったりなんだけど。

え~と、全体の感想としては、まあまあ良かったと思います。立場上というかなんというか、「原作と違う!」と声高に主張したくなりそうで観る前からびくびくおりましたが、案外そうもなく、ふつうに楽しませていただきました。

トレイラーなんかを観ていただければわかると思いますが、金ぴか度が原作比300%の勢いですので、ま、率直に言ってイメージとは違うわけですが、1920年代の物語をがっちり時代考証して作られても地味感ただようドキュメンタリーアーカイブになりそうですので、これはこれでいいんじゃないかと。華やかで見栄えするしね。

視覚的なつくりはそんな感じですけれど、むしろ台詞やナレーションが原作に基づいたものばかりでうれしかった。あ、これはあのへんの文章だなあとか、なるほど、こうアレンジしたのかとか、ありゃ、そこカットしちゃう? みたいな感じで、いや、楽しみ方が偏執的と眉をひそめられれば、ま、そのとおりなんですけれども、いいの、おもしろかったから。

ってな具合に心の広さを誇っておいてアレだけど、結局それにも限度があることを認めるはめになるわけで。

なんかちょっとなあ……。

違和感があったところとしては、ニック・キャラウェイの設定がまずひとつ。メインストーリーののちに(たぶん)アル中に陥って療養をかねて小説『グレイト・ギャツビー』を書いている、という設定であると認識したわけですが、これちょっとうれしくないなあ。スコット・フィッツジェラルド本人の歩みと重ね合わせてあるのは理解しますが、だってこれじゃあ、あの名高き「ラストの文章」を「後ろ向き」に解釈したっていうことになってしまう。それに、「酔っ払ったのは一生に二度しかない」という台詞(独白)と矛盾する気がする。

ふたつ。ギャツビーの登場シーン。あれはちょっともうなんというか愕然としてしまって、観なかった事にしたかったくらい自分のイメージとちがった。あのシーンはさ:

ニックが「まだホストにも会ってない」と言ったことに対して、ギャツビーが(この人はどういうつもりでこんなことを言っているんだろう?)という怪訝そうな表情を浮かべ、(ひょっとしたら知らないのかな?)という感じでおずおずと「私がギャツビーです」と名乗る。んでニックが「ひい、とんだ失礼を!」とうろたえるところに、”例の笑顔” 全開で「気になさるにはおよびませんよ、old sport」。

――というシーンであるべきなのだ。なのにこのディカプリオ=ギャツビーときたらフルオーケストラを従え超カメラ目線で "I'm Gatsby." 。花火もあがっちゃう。そしてにんまりと笑うディカプリオの額のしわにオレは切なさを覚える。……違う、そんなシーンであっていいはずがない……。というわけでこのシーンは脳内で補完することにしましたのでもういいや。

あと、すっごい細かいことですが、モンテネグロの勲章は丸型という設定ではなかったでしたっけ。まあ、ここは実物考証の結果かもしれないので、なんとも言えませんが。

ここがよかった。

エリザベス・デビッキ演じるジョーダン・ベイカーがすばらしい。彼女の役づくりはまさにイメージどおりだった。颯爽とした歩き方、無表情気味の冷ややかな態度、でもゴシップ大好きな運動部系ツンデレ娘。まあ、ニック&ジョーダンの物語がほぼ全面的にカットされているこの映画に関しては「デレ」がないのですけれど。第1章のトムの屋敷での初登場シーンで、壺にパーパットを決めるところ(だるそうに)とか、映画オリジナルでしょうけれどジョーダンらしかったなあ。

第5章、ニックのバンガローでギャツビーとデイジーが再会するシーン。部屋を花だらけにしてしまう大げすぎる準備、ギャツビーの子供みたいに緊張した姿、よく描けてたと思います。でもたしか時計は床に落ちないと思うけれど。あの部分の「床に落ちてバラバラに壊れてしまったんだと思っただろう」はユーモアとしてけっこう好きなのでちょっと残念でした。あ、そういやフィンランド人の家政婦がいない。

第6章のギャツビーがシャツを次々に放り投げるシーン。吹き抜けの上から下に投げるという発想はなかった。これは見事。でも冷静に考えてみると、たたまれたシャツが空中で折り目を開くのでそれなりに滞空時間があると考えると、たしかにこういう感じだろうね。

で、結局?

やっぱり原作好きな人は見に行って損はないと思う。やっぱ1920年代アメリカ――狂騒の20年代――ってどうしてもイメージが湧きにくいし。「灰の谷」ってあんな感じの場所なのかっていまさら知ったくらいだし。ギャツビーの黄色い大きな車も、ああ、こんな感じなんだね、とか。やっぱり映像作品のもつ力は小さくないです。

原作に触れてない人にとっては、序盤30分のストーリーが詰まり過ぎかなあ? 一見さんにとっては誰が誰だかって感じになる思う。もっとも、原作だって「ニック・キャラウェイ」というフルネームがなかなか出てこない不親切仕様なわけですけれど。

ギャツビー役がディカプリオなので、どうしてもかれに対する好き嫌いも問題になってこようかとも思います。個人的にはそんなきらいじゃないけれど、でも、ギャツビーをやるには少々遅きに失したのではないかなあ……と思いながらウィキペディアを開いたら、え、まだ38才なの? 6つも上の福山雅治にはいったいどんな魔法がかかっているんだ……っていや関係ないけどさ。

あと、「オールド・スポート」は「友よ」派でした。吹き替えだとどんな感じだったんだろう。

リンク

2013/03/03

『グレイト・ギャツビー』修正

本格的に .epub や .mobi の生成に手を出してみた途端、ミスを見つけてしまう始末。

第2章
誤:あきらかに、でたらめな道化者の眼科医が、クイーンズ区あたり自分の診療所を
正:あきらかに、でたらめな道化者の眼科医が、クイーンズ区あたりの自分の診療所を
クイーンズ区あたり自分の→クイーンズ区あたりの自分の【「の」をひとつ補う】

2012/10/12

ブクログの青空文庫対応への対応

ウェブ本棚『ブクログ』に青空文庫が登録できるようになったそうで。その結果、オレの翻訳のうち青空文庫に提供している5品も、ブクログの本棚にならべることができるようになっています。

そこで、それぞれの xhtml 版の上部にブクログへのリンクをつけてみました。いまのところ、本棚に入れる / レビューを書くといったアクションを取っている方はおられませんので、どれでも「1げっと!」できます。自分でとるのはさすがに気恥ずかしいので、どなたかとってやってください。レビューも、甘口も辛口もお好みの味付けでどうぞ。

とまあ、なんだかオレの翻訳の宣伝主体になってしまいますが、青空文庫全体として考えても、この試みはとても面白い。いろんな人が青空文庫のこのテキストを読んだよという証、言うなれば「手垢」や「書き込み跡」がここにいっぱい残っていってくれれば、青空文庫の実在感の薄さというか、どんな人がどんな気持ちで読んでるの?というつかめなさに、すこしずつ厚みがましていくんじゃないか、と期待しているのです。

もちろん、ネット上のあちらこちらに「青空文庫でこんな本を読みましたよ」という話はちらほら見かけるのですが、読書に特化したサイトでリアル本と並列して語られるのは重みがまるでちがう。コンテンツが充実してくるまでしばらく時間はかかるでしょうが、やがては青空文庫読書ガイドとしても非常に役にたつ存在になっていくんじゃないかと、期待をしてます。

期待ばかりしていても勝手な!という感じなのでなにかにレビューを書こうかと思ったわけですが……さて、なににしようかな。あえて村山槐多いっちゃう?とか思いながら、でもこの人の書いたものだと詩か童話『五つの夢』が抜群の出来なんだけど登録がないという……。いろいろ読み返しながら考えたいと思います。

2012/08/03

『グレイト・ギャツビー』修正、あるいは「オールド・スポート」を日本語で表現する挑戦。

しつこく続く修正の一環。今回はギャツビーが口癖のように言う old sport という呼びかけに対する訳語を変更しました。

村上春樹訳では「オールド・スポート」とカタカナ化され、「あとがき」で翻訳不可能であるという旨のことが述べられていて、正直、一読者兼一訳者としては「ええ~!」という、がっかりぎみの感想をいだいたこともあり。というか、そのあとがきを読んで買うのをやめたんですけど、う~ん、これに関しては「正しい」翻訳なんてありえないことは判っているだけに、なんらかの挑戦というかひらめきを見せて欲しかったな、せっかくの機会をもったいないな、と思うわけです。

んで小川高義訳(光文社)は訳出をさけたらしいですが(申し訳ないのだけど、未確認)、まあ、これはこれで一つのやり方かなあと。でも、やっぱり、なにか、挑戦して欲しいよね、というのが正直な気持ち。

といいつつも、翻って自分を見ますと「親友」を当てていたわけですが、これは、野崎孝訳をそのまま流用しているわけで、まあ、結局のところ自分だって機会をなげうっていることに違いはなく。いや、言い訳をすると、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)でのホールデンの台詞と齟齬をきたさないように、という遠慮があったわけですが、『ライ麦』もちがう訳が出ましたし、そんじゃあひとつ果敢に挑戦してやろうじゃないかと。

公開当初は漢字で「貴方」がいいんじゃないかと思ったり、しかししょせんそれは字面遊びにしかならないのでやめたりしましたが、しかし今回はふと思いつきました。

尊公。

「御存知だと思っていたのです、尊公。いや、これは気の利かぬ招待主で恐縮です」

「そこにあの戦争が起こったのですよ、尊公」

「何と言いますか、ほら、尊公はそう大金をお稼ぎになっておられるわけではないのでしょう?」

「おれに向かって『尊公』はやめろ!」

ネタ元は、司馬遼太郎『花神』です。二宮敬介が主人公・村田蔵六をこう呼ぶんですが、敬愛の気持ちがすごく伝わるよい言葉ではなかろうか。

訳語としては、「親友」とくらべて、二人称として使うことができるのは有利だと思います(例3みたいに)。台詞としてはかなり不自然ですが、そこはそもそもが不自然なんだし。いまどきだれがこんな言葉使うんだよ、みたいな雰囲気もフォローできてるんじゃないかと。

似た雰囲気のことばに「貴下」がありますが、ちょっと音が好きじゃない(2音は短すぎる!)という意味不明な理由で外しました。「足下」はもちろんダメですし、「大兄」だと、ギャツビーの場合、闇社会とのつながりみたいな色合いがでてしまいそうなので×。「貴公」はどうなんでしょうねえ。オレはこの言葉にあんまり敬意を感じないので採りませんでしたが、日本語としてはこっちのほうが自然かもしれないなあ。

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2012/07/27

Re: コメントにならないコメント-11

最後のコメントできびしいご指摘。

hardware 屋さんを「重機」なんてとんでもない訳語もありましたね。普通の金物雑貨屋さんのことですよ。ブルドーザーを商っているわけじゃない。

はい、です。でもちょっと言い訳タイムをいただこうかな。

まあオレの知識不足たるところなのですが、これが「雑貨」を意味するのか、「中間材料」を意味するのかわからんのですね、今なお。地金・板金類を扱ってるんじゃないかなあ、という気がしたりもするんですが、そこで「金物」というとちょっと意味合いが変わってくるか?と迷いつつも、そもそも「重機」にした最終的な動機が「よくわからないので、野崎訳とあえてちがう単語を選択してみる」というコピーライトトラップ回避主眼の卑しいしろものだったりもするので、こうして公にダメ出してもらったのはかえってありがたかった感はある。

まあ、「中間材料」としても、「重機」は変だよね~。この件は、以前から気にはなっていたので、先だっての修正時に「金物」に変更しましたが、そこでこの記事に気づいたのでご紹介しておきます、ということで。

んで、もうひとつ。

英語で brother とか sister だと日本語に訳しにくいのです。前後関係から「兄」と想像できることもあります。例えば「祖父の兄」と言っても妥当なことがある。しかし、この訳者は、そうしておきながら「大叔父」と great-uncle を訳してしまっている。それとも、今頃の日本語では「大伯父」と「大叔父」の区別はつけないのでしょうか。

へえええ~。なんて言ってしまうのがまたなお不勉強ではありますが……。そっか、たしかに「伯」は長兄を意味するんでしたっけ。いや、まったくその辺りの意識がなく、ご指摘のとおりオレの中では区別がついてません。なるほどねえ……。

次回の修正時に変更するようにしようかな。

2012/07/25

パブー版『グレイト・ギャツビー』公開をめぐる想いのはしきれ。

電子書籍の作成・販売ができるサービス「パブー」にて、『グレイト・ギャツビー』を公開しました。あえて有料 (3,000円!) です。

なにがやりたいかというと……本質的にはまあ、売名行為ですね。はい。

青空文庫のおかげでネット上にオープンな古典文献を蓄積するという活動があることはそれなりに知られているとは思うのですけど、プロジェクト杉田玄白をふくめ、そこに翻訳によってかかわるというあり方は、まるで盛り上がらなかったみたいだなあというのが、アクティブでなくなってから10年たった私が、2012年に自分のサイトの移転をしながら感じた印象でして。

需要があまり高くないのは仕方がないとしても、認知度そのものが低いと思うのですね。

そこで、『ギャツビー』を使ってこういう活動があるということを違うプラットフォームに広げてみることにしました。青空文庫で『ホームズ』シリーズや『あのときの王子くん』の翻訳をはじめに精力的に翻訳活動をなさっている大久保ゆうさんもパブーで活動なさっているので、まあ重複はするんですが、『ギャツビー』は今年末に映画化される関係で注目を集めやすいと踏みました。しかも3000円ですよ。あほかコイツと思って1ページめくらいは見てもらえるんじゃないかと。

とりあえずそういう情宣ができればまず目標は達成できるわけですが、そんでもしお金を出してもいいよって人が万が一でてきたとしたら、それはそれでオレとしてはとても嬉しいしありがたい。そして、「こういう展開もありかもよ」っていう、オープンな翻訳活動のまた違うモデルの参考例にできるんじゃないかと。

正直、お金を絡めた話に持っていくのはやっぱり抵抗はあります。でもクリス・アンダーソンの『フリー』を読んでいて思ったんですが、「読者にお金を配るというやりかたは成立しない」んですよね。どこかである程度のなにかを回収しないと破綻してもしかたがない、ということになってしまう。例として適切かどうかわかりませんが、Katokt さんの翻訳にせよ、Osawa さんの『物語倶楽部』にせよ、主体者がリソースをさかなくなれば、そこでおしまいです。

本質的にオレの活動は無償奉仕であって成果物が無償で提供されていることに意味がある。そう、客観的に言えばそのとおりなんだけど、なんというかな、あんまり無償で!とか無料で!とかいうヒステリックな物言いは好きじゃないのですね。無料と聞くと「なんかうさんくさいな」と一瞬身構えてしまったりとか。

そこにエリック・レイモンドたちが言うような「評判モデル」が機能してくれればいいんですが、オレみたいな一般人には、評判と言ってもあんまり意味がないんじゃないか。そうすると、とりあえずはお金に行きついてしまうのかなあ、と、内心ひるみながらも、そう思うわけです。……まあ、パブー版の1ページめにちゃんともっと書いてありますので、そちらも参考にしていただくとして。

とにもかくにも、どんと3000円を積んでくださる方がでてくるのか。あるいは、全然話題にもならずに消失してしまう試みか。さあ、どうなることでしょう。

おまけ。表紙は適当に作ったんだけど、なんかちょっといい感じのように思えてきた。手作り感と適当感のほどよいミックス。

2012/07/24

[翻訳] 『グレイト・ギャツビー』修正

『グレイト・ギャツビー』、直前のエントリーで言及したものを含み、大幅に修正を行いました。本文。差分。

今回、差分を「青空文庫修正履歴作成ツール」によって出力してみました。Shift JIS のみ対応なので unicode を使っている html 形式のファイルには差分を出せませんが、どこがどう変わったかについては逆にはっきりわかるんじゃないかと思います。便利。

しかしまあ、なかなかきびしい間違いが多く……。ほんとうを言うともう少ししっかりチェックをしたいのですが時間が許しますことやら。

2012/07/17

Re: 言葉を紡ぎだすのが作家の喜び

というエントリーを見つける。

主題は『グレイト・ギャツビー』の第5章、ギャツビーがシャツを投げまくる場面の翻訳についてのコメントなのだけど、正直、これは参った。野崎孝訳、村上春樹訳と比較されるのは、まあ仕方ないとしても、その上でわりと好意的なコメントがつくのはどうしたものだろう。

オレとしてはこの部分の翻訳は全然駄目だと当時から思ってたので、よりによってここを取り上げなくても、という思いは、ある。問題の原文は、こうだ。

He took out a pile of shirts and began throwing them, one by one before us, shirts of sheer linen and thick silk and fine flannel which lost their folds as they fell and covered the table in many colored disarray. While we admired he brought more and the soft rich heap mounted higher - shirts with stripes and scrolls and plaids in coral and apple-green and lavender and faint orange with monograms of Indian blue. Suddenly, with a strained sound, Daisy bent her head into the shirts and began to cry stormily.

"They're such beautiful shirts," she sobbed, her voice muffled in the thick folds. "It makes me sad because I've never seen such - such beautiful shirts before."

で、オレはこう訳している。

ギャツビーはワイシャツの山を取りだし、1枚1枚、ぼくらの目の前に投げ出しはじめた。地味な麻のシャツ、厚いシルクのシャツ、見事なフランネルのシャツが、宙を泳ぎながらその折り目を開き、彩り豊かにテーブルの表面を飾っていく。感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投げ、柔らかで贅沢な山はさらに高く伸びる――縞模様や渦巻き模様や格子模様が珊瑚色やら青林檎色やら薄紫色やら淡橙色やらで入り、インディアン・ブルーの糸でイニシャルが刺繍してある。とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。

「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗なワイシャツ、見たことないんだもの」

野崎訳、村上訳がそれぞれどうなっているかはリンク先でとくとごらんいただくとして。

まず何が駄目かって、「縞模様や渦巻き模様や格子模様が珊瑚色やら青林檎色やら薄紫色やら淡橙色やらで入り、インディアン・ブルーの糸でイニシャルが刺繍してある。」という文章は最悪だ。暴れ馬にふりおとされないようにと無様にしがみついているにすぎない訳し方。「地味な麻のシャツ、厚いシルクのシャツ、見事なフランネルのシャツが、」というのも、ちょっと原文とずれる上にイメージが鮮明でない。

第2段落の訳は、そう悪くないと思うので(というか、そう外しようがないというか)そのまま。ということで、これでどうだろう。

ギャツビーはワイシャツの束を取りだし、1枚1枚、ぼくらの目の前に放り投げはじめた。薄手のリネンのシャツ、厚手のシルクのシャツ、洒落たフランネルのシャツが、宙を泳ぎながらその折り目を開き、テーブルの上に彩り豊かに散り積もっていく。感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投げ、柔らかで贅沢な山はさらに高く伸びる――横縞・縦縞・格子の模様、珊瑚色・青林檎色・藤色・薄橙色の布地、インディアン・ブルーの飾文字。とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。

「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗なワイシャツ、見たことないんだもの」

すこしリズム感はよくなったと思いたいけれど、中黒を使うのも、あんまりよろしくはないかもなあ。「藤色」は野崎訳パクリで。ここはたしかに自然物の名前を冠した色でなきゃいけないけど、「ラベンダー色」とすると浮きすぎる。

あとは「柔らかで贅沢な山」もなんとかしたいとは思うんだけど、表現力不足。

追記: いろいろ考えて「ふかふかの」でシンプルにいけそうな気がする。

2012/07/13

[翻訳] ギャツビーに関するリアクションをもうひとつ。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/4383/1088779869/63
よくわからないけど、名高い2チャンネルではなさそうな、どこかの掲示板。

He did not know that it was already behind him, somewhere back in that vast obscurity beyond the city, where the dark fields of the republic rolled on under the night.

http://www005.upp.so-net.ne.jp/kareha/trans/gatsby.htm あの街の向こう、あの広大で曖昧とした世界、共和主義の原野が夜にまかせて押し寄せようとしていたところにぼくらが置いてきた夢。

ぼくらが置いてきた夢。is not correct. Gatsby's dream was already behind him.

Here "the republic" just means "this nation" (the USA).

そのとおり、としか言いようがない。ゴメンナサイ。

一応その狙ったところを記録に残しておくと、the republic を「国」よりも「思想」として読みたかったんだ。「みんなで幸せになりましょうね」的な共和主義思想と読めば、「じゃあどうしてそもそもの起こりが共和主義であるはずの国でギャツビーは幸せになれないわけよ?」というニック=フィッツジェラルドの怒りみたいなものが、この文章から感じられないだろうか。

そこで「共和主義」としたわけだけど、こうするとこの the republic がアメリカであることは確実に伝わらなくなってしまう。そこで、最初の文章を作り変えて「ぼくらが……」という形に。「ぼく」はニックなので、「ぼくが置いてきた」場所はアメリカになるはずだ。

まあ、翻訳としては邪道のきわみである。

そして、つまり、オレはこのシーンを「共和国」が「夜」=「夜明け前」にあったころの歴史の話をしていると思っているのだけど、でも一般に手に入る訳書を見る限り、こんな解釈をする人はいないみたいだね……。

なんにせよ、夢がビハインドにあるのは、ギャツビーが主体的にそうしたからではないので、動作を伴う動詞を入れるのはまずそうだ。vast obscurity に「茫漠たる」を使うのは野崎孝訳に遠慮して避けていたのだけど、どうやら村上春樹訳もそうしているらしいので、もう遠慮することはなかろう。

かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市のかなたの茫漠たる世界のどこか後方、この共和国の、夜の帳の下にうねり広がる、闇深き原野だったのだ。

……ピンボケぎみだろうか。「この共和国の、」で一回切れるのも係りがわかりづらい。「共和国」を主格にしてみる?

かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市のかなたの茫漠たる世界のどこか後方、この共和国が、夜の帳の下にうねり広がっていた、闇深き原野だったのだ。

直前のエントリーで「読み手としての解釈を翻訳に載せるのはいかが」みたいなことを書いておいてあれだけど、ここについてはもういいやという気がしてきた。もっと大胆に過去の話にしてやれ。

かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市が茫漠として形もなかったいつかのどこか、この共和国がいまだ夜の帳の下にうねり広がっていたころの闇深き原野だったのだ。

誤訳……というか、誤読という汚名はあえて甘受することにしよう。

でも、歴史レベルの過去のことを語って(ニューヨークの最初の植民者はオランダ人だ)、直近のギャツビーにことを考えて、歴史と直近の出来事を絡め合わせるという思考の流れには、無理がないと思うんだ。

[翻訳] Re: 無料で読める『グレイト・ギャツビー』(青空文庫)

というエントリーを見つけたので、ちょっと内容を検討してみたい。

直訳体なので、もっと日本語を磨いたほうが伝わりやすいのにと思える箇所もある。たとえば、「異常なほど意思を伝えあう」とか「資質が平凡」とかは改善が必要だろう。しかし逆にみれば、凝った言い回しを使っていないので読みやすい。野崎訳はもちろん、それを批判している村上訳も案外古い表現が多い。

なるほど。直訳体については、そうでしょうね。オレは翻訳の際に文章の流れや長さが極端に変わるのをいやがるたちなので、どうしてもそうなってしまいがちではある。そこにあるぎざぎざ感をいかに丸くこぼしていくか。つまり、お褒めの言葉を(ちょっとずるい形で)借用すれば、「直訳体なのに読みやすい」という形こそが個人的な理想なわけだけど、なかなかそううまくはいかないんだよねえ……。

1. 「異常なほど意思を伝えあう」

原文は "unusually communicative" 。そしてじつはこの部分、他の方からも表現が変と言われたことがある。う~ん、でもこの部分は、すごく表現しづらい。"always been unusually communicative" と、「常に~普通じゃない」という表現は一瞬ひっかかるものを感じるし、そもそも「普通にコミュニケイティブ」というのは、いったいどんな状態を指すんだろう?

そんなわけで、ここの部分はオレの読者としてのとまどいがそのまま打ち出してあるわけだけど、そんな中でちゃんと伝えるべきと考えた要素は、「行き交う情報量が普通じゃない」ということだった。少々いびつな表現になってはいるものの、きっと誤りなく読み取ってもらえると思いたい。

で、この部分、もうちょっとつっこんで考えてみたい。問題は、どう普通じゃないのかということ。それはたぶん、「一を聞いて十を知る」的な、増加直線的なものではないように感じる。もっとこう、「一を聞いて一じゃない可能性を知る」みたいな、ひどくまわりくどいコミュニケーションのあり方じゃなかろうかと思う。

たとえば、冒頭の「他人のことをとやかく言いたくなったときはいつでもね、この世の誰もがおまえほどに恵まれた生き方をしてるわけじゃないと思い出すことだ」という父のことばは、普通じゃない (unusual) 解釈をすれば、「自分より恵まれている相手をとやかく言うはよし」ということなわけで、結局、ニックはそれにしたがってか、ギャツビーを「軽蔑するものすべてを一心に体現する男」と言い切ってしまうし、終盤ではトムとデイジーを終盤で断罪するいきおいを示す。そして、ウィルソンに対しては基本的に同情的である。

と、オレは読んでいるのだけど、でも、これは非常に個人的な、そしてたぶん異端的な読み方であって、しかもオレ自身絶対的に正しいとは思っていないくらいなので、翻訳上に示すのはいかがなものか。というわけで、具体的なところは読み手の想像にまかせるとして、「標準以上の」とも「標準以下の」とも解することのできない言葉を選択して、こうなりました。

さて、もし修正するとしたら、どうするだろうなあ。たしか、初稿の初稿では「並大抵でないコミュニケーションのとりかた」だったような記憶があるが、それと比べたら今の方がマシだ。


2. 「資質が平凡な」

う~ん、そうくるのか……。前後を補うと、こうだ。

風変わりな精神の持ち主は、ぼくのような資質が平凡なひとたちの中に現れると、それを目ざとく見出し、すりよってくるものなのだ。

The abnormal mind is quick to detect and attach itself to this quality when it appears in a normal person,

……なるほどと思う。オレの想定では「ぼくのような資質が/平凡なひとたちの中に/現れると」なんだが、たしかにそう読ませるのは無理がある。

"abnormal spirit" v. "normal person" を活かしつつ、これならどうだろう:

並外れた精神は、並みの人物がこの特質をあらわにすると、たちまちそれを察知し、くっつこうとする。

やはり、精神の「持ち主」は補ってやる必要があるか?

並外れた精神の持ち主は、並みの人物がこの特質をあらわにすると、たちまちそれを察知し、くっつこうとする。

……なんだか、ちょっと違うんだよなあ……。持ち主をやめて、特質→心がけなら?

並外れた精神は、並みの人物がこの心がけをあらわにすると、たちまちそれを察知し、くっつこうとする。

appear を少し弱く、attach を少し作った感じで。。。

並外れた精神は、並みの人物がこの心がけを見せると、たちまちそれを察知し、そこにぶらさがろうとする。

……こんな感じでまあ遠からずだろう。理想を言えば語順をそのまま使いたいが、「察知」を前に出すのはかなり無理がありそうだ。

2001/11/23

フィッツジェラルド『グレイト・ギャツビー』公開

旧「謝辞:ごめんなさいとありがとう」より再録。

20世紀を代表する大傑作。でも最後までやれるのか? というかそもそもオレにこれがやれるのか? いざ翻訳してみるとフィッツジェラルドの文章って異様に "as if..." が多いね。1段落に2回も使うなよ。でも "yellow of autumn-leaf" という表現は好きだな。さすが「ジャズ・エイジの桂冠詩人」。

katoktさん、Takachinさん、結城浩さん、sogoさん、富田倫生さんよりお知恵を拝借。感謝。

野崎孝訳(集英社文庫)の影響はそれなりにあります。

関連書籍

このセクションは再録時に追加しました。

もしかするとこれはすでに絶版かもしれない。