2013/07/07

映画『華麗なるギャツビー』拝見の記。あるいはぼくがえらそうに繰り返す答え合わせめいたなにか。

映画は苦手であんまり見に行かない。上映の間じっとしていないといけないというのがどうもダメらしい。なので今まで映画館で見た映画は20本もいかないんじゃないかと思うのだけど、そんなオレでもやっぱり『華麗なるギャツビー』はスルーすることができませんで、奥方様とデートがてら見に行ってまいりました。

3Dもあったけれど、相方が3D酔いするたちだし、オレもこだわりがないので2D。2Dを選んだら字幕しかなかったので否応なく字幕。まあ、オレとしては字幕のほうが好きなので願ったりなんだけど。

え~と、全体の感想としては、まあまあ良かったと思います。立場上というかなんというか、「原作と違う!」と声高に主張したくなりそうで観る前からびくびくおりましたが、案外そうもなく、ふつうに楽しませていただきました。

トレイラーなんかを観ていただければわかると思いますが、金ぴか度が原作比300%の勢いですので、ま、率直に言ってイメージとは違うわけですが、1920年代の物語をがっちり時代考証して作られても地味感ただようドキュメンタリーアーカイブになりそうですので、これはこれでいいんじゃないかと。華やかで見栄えするしね。

視覚的なつくりはそんな感じですけれど、むしろ台詞やナレーションが原作に基づいたものばかりでうれしかった。あ、これはあのへんの文章だなあとか、なるほど、こうアレンジしたのかとか、ありゃ、そこカットしちゃう? みたいな感じで、いや、楽しみ方が偏執的と眉をひそめられれば、ま、そのとおりなんですけれども、いいの、おもしろかったから。

ってな具合に心の広さを誇っておいてアレだけど、結局それにも限度があることを認めるはめになるわけで。

なんかちょっとなあ……。

違和感があったところとしては、ニック・キャラウェイの設定がまずひとつ。メインストーリーののちに(たぶん)アル中に陥って療養をかねて小説『グレイト・ギャツビー』を書いている、という設定であると認識したわけですが、これちょっとうれしくないなあ。スコット・フィッツジェラルド本人の歩みと重ね合わせてあるのは理解しますが、だってこれじゃあ、あの名高き「ラストの文章」を「後ろ向き」に解釈したっていうことになってしまう。それに、「酔っ払ったのは一生に二度しかない」という台詞(独白)と矛盾する気がする。

ふたつ。ギャツビーの登場シーン。あれはちょっともうなんというか愕然としてしまって、観なかった事にしたかったくらい自分のイメージとちがった。あのシーンはさ:

ニックが「まだホストにも会ってない」と言ったことに対して、ギャツビーが(この人はどういうつもりでこんなことを言っているんだろう?)という怪訝そうな表情を浮かべ、(ひょっとしたら知らないのかな?)という感じでおずおずと「私がギャツビーです」と名乗る。んでニックが「ひい、とんだ失礼を!」とうろたえるところに、”例の笑顔” 全開で「気になさるにはおよびませんよ、old sport」。

――というシーンであるべきなのだ。なのにこのディカプリオ=ギャツビーときたらフルオーケストラを従え超カメラ目線で "I'm Gatsby." 。花火もあがっちゃう。そしてにんまりと笑うディカプリオの額のしわにオレは切なさを覚える。……違う、そんなシーンであっていいはずがない……。というわけでこのシーンは脳内で補完することにしましたのでもういいや。

あと、すっごい細かいことですが、モンテネグロの勲章は丸型という設定ではなかったでしたっけ。まあ、ここは実物考証の結果かもしれないので、なんとも言えませんが。

ここがよかった。

エリザベス・デビッキ演じるジョーダン・ベイカーがすばらしい。彼女の役づくりはまさにイメージどおりだった。颯爽とした歩き方、無表情気味の冷ややかな態度、でもゴシップ大好きな運動部系ツンデレ娘。まあ、ニック&ジョーダンの物語がほぼ全面的にカットされているこの映画に関しては「デレ」がないのですけれど。第1章のトムの屋敷での初登場シーンで、壺にパーパットを決めるところ(だるそうに)とか、映画オリジナルでしょうけれどジョーダンらしかったなあ。

第5章、ニックのバンガローでギャツビーとデイジーが再会するシーン。部屋を花だらけにしてしまう大げすぎる準備、ギャツビーの子供みたいに緊張した姿、よく描けてたと思います。でもたしか時計は床に落ちないと思うけれど。あの部分の「床に落ちてバラバラに壊れてしまったんだと思っただろう」はユーモアとしてけっこう好きなのでちょっと残念でした。あ、そういやフィンランド人の家政婦がいない。

第6章のギャツビーがシャツを次々に放り投げるシーン。吹き抜けの上から下に投げるという発想はなかった。これは見事。でも冷静に考えてみると、たたまれたシャツが空中で折り目を開くのでそれなりに滞空時間があると考えると、たしかにこういう感じだろうね。

で、結局?

やっぱり原作好きな人は見に行って損はないと思う。やっぱ1920年代アメリカ――狂騒の20年代――ってどうしてもイメージが湧きにくいし。「灰の谷」ってあんな感じの場所なのかっていまさら知ったくらいだし。ギャツビーの黄色い大きな車も、ああ、こんな感じなんだね、とか。やっぱり映像作品のもつ力は小さくないです。

原作に触れてない人にとっては、序盤30分のストーリーが詰まり過ぎかなあ? 一見さんにとっては誰が誰だかって感じになる思う。もっとも、原作だって「ニック・キャラウェイ」というフルネームがなかなか出てこない不親切仕様なわけですけれど。

ギャツビー役がディカプリオなので、どうしてもかれに対する好き嫌いも問題になってこようかとも思います。個人的にはそんなきらいじゃないけれど、でも、ギャツビーをやるには少々遅きに失したのではないかなあ……と思いながらウィキペディアを開いたら、え、まだ38才なの? 6つも上の福山雅治にはいったいどんな魔法がかかっているんだ……っていや関係ないけどさ。

あと、「オールド・スポート」は「友よ」派でした。吹き替えだとどんな感じだったんだろう。

リンク

2013/03/10

『ゼンダ城の虜』第15章、公開。

さて、ようやく15章にたどりつきました『ゼンダ城の虜』。当初、章題を「誘惑者との語らい」にしましたが、素直に「私は誘惑者と語らった」のほうがよさそうなので直します(そのうち)。

おおまかにわけて3パートある章ですが、やはり見どころはルパート・ヘンツァウ。つくづく、ホープは素晴らしいキャラクターを生み出したもんだと思います。ここでラッセンディルが誘惑に乗ったとしても、それはそれで面白い物語になりそう。

翻訳上は、残念ながら怪しいところの多い章となってしまい……。とりあえず2つ備忘がてらメモっておきますか。

ひとつ。

and I, riding down one day with Flavia and Sapt, had an encounter with an acquaintance, which presented a ludicrous side, but was at the same time embarrassing.

"ludicrous" なんて単語が出てこれる文脈じゃないと思うのだけど。"but..." の先にある "embarrassing" (当惑する)とは反対側のニュアンスを含むはず……。だけど、「笑える」とは違う気がする。なにかこう、つかめないところ。

ふたつ。

"Get out of my reach!" said I; and yet in a moment I began to laugh for the very audacity of it.

というラッセンディルのセリフに続く文章の最後がなぜ "it" なのか、ちょっとピンとこないのです。"his" じゃないの?

まあ、どちらも物語の道筋に大きな違いの出るような所ではないので、例によって適当に処理しておきます。

次章は、ちょっと遅れそうかなあ。訳自体はできちゃおるんですが、もうちょい見直したく。でもそれより前にやりたいこともあったりで、結局5月ころになるかもしれない。そうなると、どうやら今年中には最後までいきつけなさそうですね。

2013/03/03

『グレイト・ギャツビー』修正

本格的に .epub や .mobi の生成に手を出してみた途端、ミスを見つけてしまう始末。

第2章
誤:あきらかに、でたらめな道化者の眼科医が、クイーンズ区あたり自分の診療所を
正:あきらかに、でたらめな道化者の眼科医が、クイーンズ区あたりの自分の診療所を
クイーンズ区あたり自分の→クイーンズ区あたりの自分の【「の」をひとつ補う】

2013/02/06

「ノーウッドの建築家」修正

入力ミスを発見しましたのでとりいそぎ修正。

誤:ただ、別の考え方もありえるんじゃないかと言っておきたかっだだけでね。
正:ただ、別の考え方もありえるんじゃないかと言っておきたかっただけでね。
【おきたかっただけ】

あとまあ、ミスというかミスなんだけど、テキスト版でアラビア数字が1箇所のこっていましたので、漢数字に。

2013/01/22

オー・ヘンリー『警官と賛美歌』修正。

最近急激にアクセスが増えておりますが、久しぶりに読んでみますと単純な間違いを見つけてしまいましたのでとりあえず手直しを入れておきます。

誤:夜な夜な集まってまくる場所である。
正:夜な夜な集まってくる場所である。
【集まってまくる】

誤:感謝際に婦人伝道師から送られたちゃんとした既製品だ。
正:感謝祭に婦人伝道師から進呈されたちゃんとした既製品だ。
【感謝際】、【送られた】
送られた、は typo ですが、ついでに表現を改めます。

誤:夜までの間あちこちで見うけられる地区で、足を止める。
直後の改段落をとります。

以上3点。他にも翻訳自体を直したい部分が見えますが、今回は見送りということで。

2013/01/21

ジャック・ロンドン『世界が若かつた時』(和気律次郎訳)公開

これまたここに書くのが遅れてしまいましたが、年始頃に、ジャック・ロンドンの短編小説、『世界が若かつた時』を公開いたしました。翻訳は、オレではなくて、和気律次郎 (1888 - 1975) によるもの。近代デジタルライブラリーで公開されている英米七人集 : 清新小説を底本として入力しました。

まあ、自分で翻訳していないこともあってあまり思い入れのない作品であり、物語として面白いかというと、いや、そうでもなかったかもな、と思わなくも。「影と光」に同じく、ジャック・ロンドンのお得意の筋書きのひとつ、とりあえず戦って決めようぜ的な感じです。いろいろ細かく設定を作るのに、なぜにこんな雑な展開の物語にしてしまうのか、オレ的にはなんだかもったいないなあ、と思うのですけれど。流行作家のつらいところなのでしょうかねえ。

そして翻訳としても、1922年のものですのでスタイルが古めかしい。「彼」がものすごく多いし。旧字旧仮名ですし。というか、旧字旧仮名なんだけど、ところどころ怪しいところがあったり。正直、オレあんまりこの辺の時代の文章作法をまるで知らないんですが、「煌々」に「くわうくわう」とかなを振ったかと思えば、そのしばらくあとで「こうこう」ってふったりしてるんだけど、この統一感のなさは誤植なの? それとも素なの? よくわかりません。

そんな不勉強な状態ながら、この入力作業というやつもなかなかおもしろい経験でした。この字って昔はこう書いてたのかと、改めて思うこともたびたび。読むときにはなんとかついていけるのだけど、いざ自分が使うとぜんぜん印象が違うもので、「寝」と「寢」みたいな、なんとなく見ていたのでは判別できないくらいほんの微妙な字体の違いを改めて知ったりとか。

と、古い翻訳ではあるのですが、和気律次郎は1975年没とえらく長寿だったようなので、著作権はまだ保護期間内にあります。近代デジタルライブラリーでは「著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開」となっているため、ほんとうはこうやって勝手コピーをしてはいけないものなのだけれども、あえてやってしまおうと、まあそういうあれです。違法といえば違法な状態ですので、よい子のみなさんはあまり近づかないように。

この67条1項というのは、つまり、著作権者がどこにいるかわからないので再利用の許諾が取れませんという状態で、それでも使いたいので国に保証金を預けて利用する、という感じの、便法的な、あるいは裏技的なやりかたで、近デジとしてはそれでライセンスの処理を済ませているわけだけど、ただオレの思いとしては、せっかく公共的な性格の強いはずの機関でその便法を使うなら、公開するだけじゃなくて、自由に再利用してよいよ、というふうにしてくれたらいいのになあ、恩恵を自分達だけで握りしめてないでもっと広く浴びせかけてよ、という気持ちがどうしてもする。だって、もったいないじゃない。

とかく申せども違法状態であることは否定ができないところでして、まあ、著作権の侵害が親告罪であるうちは強引に中央突破できるとたかをくくっているわけですが、この辺も将来的にはどうかわからないところ。なので、今後和気律次郎らの翻訳をテキスト化するかというと、たぶんないと思います。これが青空文庫に投げられるなら、ちょっと真摯にがんばってもよいのだけど。

ただ一つ失敗したと思っていることを言うならば、どうせ和気律次郎訳ジャック・ロンドン作品を入力するなら、『強者の力』の表題作か「生命の法律」にすべきでした。とくに「強者の力」は、翻訳がかなりおもしろくできている感じがするので、ロンドンに興味があるなら、ぜひ読んでみてほしいなと思うところです。

参考リンク

2013/01/06

『ゼンダ城の虜』第14章、公開

第14章:城外の一夜をここに公開もうしあげます。……っていうか、公開したの去年の11月なんですが、ここになんにも書いてないことに気づいたりしましたので、いまごろになりました。それはもう文字通りに、よいお年をが一つすっ飛んであけましておめでとうございましたくらい今更になりましたが、まあまあ、オレのやることですもの、よくあることです。

14章は、9章以来のアクションシーンとなります。んで、死人もちらほらと出て参ります。んでんで、やっぱり見どころはルパートなのですよねえ。格好良くできてますかどうか、ちと不安の残るところではありますが。

で、ちょっと twitter で先行して翻訳についていろいろ言ってたのをもう一度。

結局、この読み方でいくことにしました。アクション的に見栄えしてルパートっぽいし。もちろん、馬ごと飛び込んだという読み方もできなくはないのだけど、いや、馬が泳いで(?)渡れるようじゃ濠の意味をなさないよね、と思うわけです。

……とはいえこの章の最大の謎は解決されないままに残ります。ラッセンディルは一体何をしにきたのか。

王さまに接触するため……「話しかけようとはしなかった」。

王さまを脱出させるため……土管を破壊できる状態だったにもかかわらず何もしなかった。

情報収集……マックス・ホルフを殺しちゃ駄目でしょ。

というわけで、じつはオレにとってこの章は存在意義のよくわからない部分であって、ちょんぎったってさしつかえないような気さえもするのでした。